五味康祐 わがタンノイ・オートグラフ ステレオサウンドNo.166「ヴィンテージを楽しむ」
約一週間、面白い本を読めなかったので昨日は大沢在昌さんの「佐久間公」をむさぼりよみました。
ふぅ~。ちょっと満足です。
本屋に行く余裕がなかったので、「本の部屋」に行って昔の本をあさり、昭和30年代の時代小説を引っ張りだしてお風呂で読むことにしました。
候補は、柴田錬三郎さんの「眠狂四郎無頼控」 「眠狂四郎孤剣五十三次」
そして、五味康祐さんの「柳生武芸帳」
西部劇を時代小説で読むチャンバラ大衆小説ですが、つまらないテレビ時代劇を見るよりは1万倍楽しいですね。
チャンバラ大衆小説ばんざい!
柴練さんも、五味康祐さんも小説の大家であるというだけでなく、趣味人でした。
柴練さんの眠狂四郎シリーズは近日また書きたいのですが、五味さんの文庫本を引っ張り出した時に最近買ったオーディオの本に懐かしい五味さんの記事が転載されていたので今日はこの話題です。
詳しくは機会を改めて書こうと思っておりますが、最近音楽を聴く文化が地に落ちたと感じているのですね。
みなさんは、音楽をどのように聴いておられますか?
私は社会人になる前は、音楽をLPレコード中心で熱心に聴いておりました。
ベルベットのレコードクリーナーでLP盤の埃をさっと拭い、ターンテーブルの電源を入れます。
アンプのボリュームを下げて、慎重にカートリッジをレコードの溝に落とします。
そしてゆっくりアンプのボリュームを上げて、至福の時を音楽と共に過ごす・・・。
五味康祐さんは、
「レコードで音楽を聴く場合、装置の鳴り方いかんで演奏者の芸術を変えてしまうことがしばしばある・・・・」
と書かれております。思わず膝を打って共感しました。
本も文化であり、本を書いた人の物語を頭の中で読み手が再現して空想の世界に遊んで楽しむものですが、音楽はもっと複雑な過程をたどって聴き手に渡ります。
作曲家が音楽を創造し、それを演奏者が音に変換して再現=演奏します。
それを録音家(レコーディングエンジニア)が全身全霊を持ってパッケージングして録音を致します。
この、作曲家→演奏家→録音家と心を込めて作られた素晴らしい「パッケージメディア」を再生することの難しさ・・・・。
菅野沖彦さん(オーディオ評論家)がおっしゃるレコード演奏家諭と同じ主旨を五味康祐さんが述べておられます。
装置の鳴り方いかんで、演奏者の芸術を変えてしまう・・・・。
21世紀に暮らす99%以上の人々は何を言っているのかわかならないのでしょうね、きっと。
サグラダファミリアも、法隆寺も、モナ=リザも人類の貴重な文化遺産なのですが、リムスキーコルサコフの作曲した音楽も文化遺産です。
そして、数世紀前に音符に書かれた記録を実際に「音」に表現したカラヤンも文化だと思うのです。
同じように、今は亡きカラヤンの演奏したベートーベンを記録したパッケージメディアに対して文化材として尊重し、再現しようとする心を持たないといまに音楽文化も衰退してしまうのでしょうね。
クラッシクだけでなく、ビルエバンスもコルトレーンも、ジョンレノンも太田裕美さんも文化遺産としてのパッケージメディアに保存されています。
生き生きと再生させてあげると、故人も生きている方なら若い頃そのままの歌声がよみがえります。
録音物を、再生させるのには技術と、「想い」が必要なのです。
本も好きですが、パッケージメディア=レコードも大好きです。
記録物としてのこれらをしっかり表現させ、芸術を変えてしまわないようにしたいものです。
iPODを音楽再生器具だと思ったり、違法ダウンロードをしている人には絶対わからない世界でしょうけどね。
醜い音を聞いていると心が貧しくなってくると気づいているんだろうか・・・。
音楽は音で聞け!って寺島さんも言っていましたけど。
ごめんなさい、普通の方には難しいでしょうね。
でも、本も、音楽も、映画も頭の中に再現して感動したいです。
最低限度の礼儀を持って音楽を再生させると、感動が倍以上に広がるのになあ。
パッケージメディア(今ならCD)には無限の可能性が録音されています。
後は、レコード演奏家(再生者)の実力によって生きも死にもするって話でした。
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